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我が子が不登校になった原因

( 父 )佐藤 順一
保育園の頃先生より太郎は「大人の前ではすごくいい子になっている子供らしいところがない」と言われたことがありました。私も営業の仕事をしているので自分自身外づらがよいと思います。こんなところも太郎が似ているところかなと思います。この頃の育て方に何か問題があったかどうかはわかりません。この頃から母親によく本を読んでもらっておりました。この様な事が母親べったりになる原因だったのかもわかりません。又小学校へ行く様になってからは後片付けはさっぱりできない子供でした、又ちらかしても子供に片付けをさせるのではなく母親が片付けるのがほとんどでした。忘れ物はけっこうしたようです。但し先生にはほとんどしかられた事はありませんでした。又先生も太郎にたのんでおけばクラスの事は何でもやってくれるので色々な役を任された様です。六年生の運動会で応援団長をやり当日プレッシャーのせいか体調をこわしました。でもその時はプレッシャーでこわしたとは気づきませんでした。
中学に入りました。中学は四つの小学校から一つの中学校になるので知らない子とも一緒になります。一年の一学期学級代表を決めるのに立候補しました。学級代表になりました。英語の先生に宿題を忘れ「こんな事では学級代表つとまらないよ」と言われショックで学校を休む様になりました。一日二日で気をとり直し学校へ行きましたが、今度は担任の先生から歯ブラシを忘れた事を注意されそれ以後行けなくなってしまいました。
私が思いますには小学時代からよい子で先生にしかられた事もなく、又私にひどくしかられるような事もありませんでした。又母親も今ふり返ってみれば子供に対し自分でやらせる事をせずすぐ手を貸す様な事が多かった様に思います。とにかく今の状態はもやし状態で竹の様に他の人が色々つらい事、きびしい事を経験してそれがふしになっている様に太郎にはそのふしの部分がなかった為、ちょっと先生に言われた事が大きな心の問題となっている様に思えます。長田先生からも指摘されましたが子離れ親離れ出来てないと思っております。小学校の時は自分がリーダーでプライドを持ってやっていたのに中学校になって皆の前でしかられプライドが一度にくずれたのではないのかと思います。

( 母 )佐藤 桂子
仕事の都合と祖父母が、高齢ということもあって一歳半の頃から保育園に預かってもらうことになり、年長組になった頃には自分と同級生の子供達に比べて保育園の事がよくわかっていたせいか、その頃からリーダーシップをとる様になっていました。そのままで小学校に入学して一年生の時に町の美術館でペンてる賞をとりいろいろな事で自信をつけたのではないかと思います。子供の数が少ない学校なので学年が変わってもクラスの友達が変わる事もないので、小さい頃と同じ様に太郎がリーダーシップをとって何かにつけてクラスの代表になっていたようです。先生からも期待をかけられ自分がやらなければいけないという気持ちが強く働いていたのか先生の一言一言を聞きのがさない様にといつもいつも頑張っていたようです。でも家にいる時は、出た物は出しっぱなし、毎日の生活ノートが書けない、宿題のドリルを最後までやることができないという様に毎日こつこつやることはまったく出来ませんでした。主人には、よくほっとけばいいと言われたのですが、ついつい私が手を出して片づけをしたりして太郎の身の回りの世話をやきすぎた様に思います。
六年生の時に応援団の団長をしたのですが当日の朝、具合が悪くなったことがありました。昨日まで何ともなかったのにたぶん応援団で勝たなければならないという責任感からくるプレッシャーではなかったのかと思います。自分は常に友達の間ではトップクラスにいるのが当然のことの様に思い、またそれが太郎の誇りでもあった様に思います。でも六年生の終り頃、疲れていたのか、朝学校に行く時になると気持ちが悪いとか頭が痛いとか言ったことがありました。その時私が気づいてあげればよかったのですが私はただのさぼりだろうと思い気分的な物だからといいドリンク剤を飲ませて学校に行かせたことがありました。それは二回程あっただけですが今思うとあれは太郎のシグナルだったのではないかと思います。その頃からだったのか「早く中学生になりたい」とよく言うようになりました。そして中学生になりはりきってクラスの学級長に立候補して選挙で学級長に選ばれました。でも小学校と偉い中学校では、他の町の子供たちも一緒になるので勉強面でも自分よりよくできる子がいて少し自信をなくしていた時に忘れ物で担任の先生からではない先生から「そんな事では学級長としての資格がないよ」と言われてそれまで何とかもっていたプライドがづたづたになったのではないかとおもいます。

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