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我が子が不登校になった原因

( 父 )宮崎雅典
小さい頃は非常にひょうきんな子供であり何事に興味津々という感じで、動きも子供らしいものでありました。 原因を私なりに考えますと三つの事柄かなと思われます。
(1)バスケットボールの練習の辛さ。
(2)その練習に対し悲鳴を上げなかったほかの同級生たちとその父母たち。
(3)彼女が生まれつき持っている常に一生懸命にという性格とそれに後付される結果から生まれてきたプライド(勉強は優秀であった)以上の内容で思い出される彼女の行動としては、まず、「お母さんバスケットは辞めたくない!!」と言いながら練習や試合の朝は、トイレからでてこない。いくら『早くしな!!時間ですよ。』と言っても。彼女はトイレから出てこれなくなっていった。その頃から『辛いもの』に対しては、頑張ろうとする気力が薄れていき、登校する元気も薄れてきた。バスケットの監督と担任の先生は同一人物であり、常に「辛さ」と言う概念の中に生活していたように思われます。
いずれにせよ、彼女は単なる「甘えん坊」であることは事実であり、このまま大人になっても、頑張りの効かない社会人となってしまうと思われます。彼女の頭の中で、「このままではいけない」との考えと「いまさら学校に行きづらいし、勉強で恥をかきたくないし!!」との考え方の二つしかないように思われますので、先生を全面的に信頼いたしますので、力強いタフな中学生に仕上げていただければと考えておりますので是非よろしくお願いします。
ただ単に、私たち夫婦は、自分たちの両親が持っていた何かを忘れてしまっているようです。私たちも何であるかを思い出せるよう頑張ります。

( 母 )宮崎幸子
小さい頃から好奇心旺盛で、元気はつらつ、ひょうきん者で何に対しても一生懸命頑張る子供でした。
特に小学校三年生の頃は、スポーツ少年団にミニバスケットボールに入部、町の生涯学習の一環として行っていた陸上チームにも所属する傍ら、超体育館で行っていた卓球や、バレーボールの練習にも時折加わるなど体を動かす事が好きな子供でした。勉強についても毎日の宿題はもちろんのこと、予習、復習、テスト勉強と完璧にこなす事に全力を注ぐそんな毎日を過ごしていました。(時には寝る間を惜しんでも)また、同時期、週1回の割合で習字とピアノの教室にも通っておりました。こんな磯悪しい毎日でしたが実に生き生きと楽しそうで充実した日々を送っておりました。
小学4年生になるとミニバスの練習が日を追うごとに厳しくなってきました。テストの回数や勉強内容も日増しに多くなり、難しくなって、そして絢香の体にも女性としての変化が表われ始め、この頃から風邪をひいたり、膝に炎症をおこしたり体調を崩す事が多くなり、ミニバスの練習を休むようになりました。理由は、風邪の熱もありましたが、頭が痛いとか気持ちが悪いとか便秘でトイレに入ったまま、集合時間に間に合わず、トイレの中で泣きじゃくっているような事も度々ありました。また、集合時間に間に合うように準備も終わり、いざ出発となると車のドアの前で体が膠着して一歩も前に進めなくなり、顔はうつむき目に一杯涙を溜めて親の声も、迎えにきてくれた先生の声もほとんど聞こえていないように見えました。
四年、五年とそんな日々が続き、ミニバスの練習は休んでも学校は、休まず登校していたのですが六年になって五月末頃から、学校さえも月に一回若しくは二回程休むようになってしまいました。中学校に入学すると一週間程度登校できたもののそれ以後、現在に至るまでほとんど登校できない状態になっています。
不登校になった直接の原因は、日を追う毎に厳しくなっていったミニバスの練習にあったと思います。かつては全国大会出場を果たしたチーム監督の指導でしたから公式試合はもちろんの事練習試合でも相手チームに得点を許そうものなら、その選手は監督席まで呼ばれ、誰がいようと人前で怒なられ突き飛ばされ、挙げ句に、お前はもうこの試合には必要ないと告げられ、コートの角に追いやられ、無視される、親であったら目を覆いたくなるような、本当に厳しい指導でした。絢香にとってもそれは例外ではなく、同じような指導の元で、監督に死ぬ気になって頑張れと激を飛ばされ、毎日泣きながらでも頑張っていました。他のミニバスのメンバーも一人もリタイアする事なく頑張っていました。それと言うのも学校担任でもあった監督の時折見せる教え子に対する愛情があったからだと思います。
でも絢香だけは、小学校六年生までミニバスを続ける事ができませんでした。一人だけ途中リタイア、確かに練習は厳しかったと思います。でも続けられなかったのは絢香一人だけ…。やはりそこには、、間違いなく家庭の問題があったのだと思います。
私達は、恋愛結婚でした。嫁いだ家は、義父母が農業を営み、新婚当初から同居し、甘い新婚生活という訳には行きませんでした。主人は、公務員ですが土、日は農業と忙しく、私本人も主人と同じ公務員で、義父母も主人も私に家事はもちろんの事、農業の方も手伝う事を望んでおりました。私にとって農業は未知の世界(サラリーマン家庭で育ちましたので)で何をどうやったらいいのかさっぱり見当もつかず、本当の気持ちを言えば、なりふりかまわずに土にまみれ、真っ黒になって働く事に嫌悪感があったことは確かです。そんな気持ちや義父母との同居という精神的苦痛も伴って、いつしかこんな状況からの逃げ道を私は子供に向けてしまっていたのです。
例えば、夏休みの課題等、子供にアイディアを与えるだけでは気が済まず、絵や工作、作文と最後まで子供に任せる事ができずに手を貸してしまったり、自分の仕事の忙しさにかまけて母親であったら教えなければいけない日常生活のそれ(洗濯や食器洗い、風呂掃除等)を教える時間があったら自分でやってしまった方が早いからとおろかな考えでさっさっと済ませてしまったりと・・・私は母親としては失格です。
それに妻としても兼業農家としての長男の役割をこなさなければいけなかった主人に対して思いやりが欠けてしまっていたと思います。そして最悪な事に子供たちにその父親の悪口まで言ってのけたのです。(時には、夫婦げんかの後等、いつかお父さんと別れたいなどと決して子供の前ではいってはいないその一言まで言ってしまっていたのです。)どんなにか子供の純粋な心を傷つけていたのか測り知る事はできません。親として悔やんでも悔やみきれません。不登校になったきっかけは、ミニバスだったとおもいます。でも本当の原因は家庭の中に存在し、母親である私の中にこそあったと思っています。そして今、深く反省しております。
最近になって、こんな事を娘が口にしました。「学校に行けなくなったのは、ミニバスの練習にいけなくなったことで友達と顔をあわせるのが辛くなってしまったから・・・」 この言葉の中に私が感じた事は、未熟な家庭、未熟な母親の元で育ってしまった子供の人一倍高くなってしまったプライドです。そのプライドを捨てきれず、娘は本当の自分を見失って今,途方に暮れているのだと思います。以前、娘はこんな事も言っておりました。―できることなら人生をやり直したい―と・・・私は、この言葉を真摯に受けとめて私の為に使わせてしまった娘の貴重な時間を一日でも早く絢香本人に返してあげたいと思います。

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